ーまたはあの日の満月についてー

ドミニクが夜勤を終えて部屋に戻ると、そいつは今日も机の真ん中に堂々そびえたっていた。

学生口座明細。

教科書を買った古本屋のレシート。

家賃滞納通知。

地下鉄のマンスリーパスの控え。

そして、最後に先週届いた封筒にくっきり印刷されたVATの文字。

Valuable Ability Tax、価値ある能力を持つ者の務め。

遠方の大学に進学して、今期から初めて自分で払うことになった異能税は、金額を見るだけで辟易して、通知書類ごと封筒の中に戻してしまった。こんな額を今まで貧しい両親に払わせていたのかと思うと、せめてもの足しにと始めたアルバイトさえまともにできなかった頃が蘇って最悪な気分だった。

始めは一枚だった紙が束になって、やがて小さなタワーを作るのにそう時間はかからなかった。全く、この全部が札束だったらどんなに良かっただろうか。  せめてファイリングやスクラップをしようにも、ハサミを握るのが億劫で結局買ったファイルが無駄になっただけだった。こういうことが続くたび、計画性のない自分にほとほと嫌気が差す。

今日も今日とてタワーから目を背けて硬いスプリングに寝転がる。次の給料が入ったら買おうと思っていたベッドパッドはいったいいつになったら変えるのだろうか。冬はもう目前だ。

ドミニクはいつものように目を閉じると深くて重いため息をついた。

***

その少年に出会ったのは、サウスステーションの構内だった。

大学の講義をすべて終え、まだ寝不足で倦怠感の残る体を引きずりながらドミニクは安アパートへ惰性で足を動かしていた。

「これ、お兄さんのですか?」

はじめは、少し低い女の声に思われた。    他人かと思って無視しているともう一度、「そちらのお兄さん」と丁寧な声がかかった。訝し気にドミニクは振り返る。

するとそこには仕立てのいい紺のピーコートを羽織ったアジア系の少年が一人立っていた。足元のローファーはピカピカに磨かれていて微かにツヤがある。女ではなかったという驚きよりも先に彼の身なりの良さが目についた。

あまりじろじろと見つめてしまっては怖かっただろうかとドミニクははっとするが、少年は気にしていないようににっこりと笑って見せた。

「これ、落としましたよ。VATの通知書」

少年の言葉にハッとして、ドミニクは鞄の中を漁る。彼の言葉通り、通知書の封筒はどこにもなかった。

と、VATという言葉に反応して、通りすがる人々の空気が僅かに変わった。まるで近くにセレブが、あるいは犯罪者がいるかのように、ある人は好奇を、またある人は恐怖や嫌悪をその瞳に浮かべる。    一度に大勢の視線にさらされたドミニクはできるだけ早くここを立ち去りたい衝動に駆られる。

「ああ悪い、ありがとう」

封筒を受け取ろうと手を伸ばす。  だが、にこにこと封筒を差し出そうとした少年はふとその手を止めた。やけに丁寧に千切られた封筒の切り口に彼は釘付けになっている。

「大事な書類なのにハサミ使わないんですね」

少年は何度か封筒を裏返して、感心したようにまじまじと断面を覗いている。そうしている間にもドミニクは周囲の視線が気になって仕方がなかった。

悪いけど急いでいるんだ。痺れを切らしたドミニクが声をかけようとしたそのときだった。

「失礼ですけど」

対して失礼とは思っていなそうな口ぶりで、笑顔を崩さないまま少年はこてんと首を傾げる。

「あなたも右目の三時ですか?」

「……あなたもって?」

少年の言葉にドミニクの心が少し興味の方へと傾く。その様子を見た少年は、ついてきてというように封筒を握ったまま、すたすたと人波をかきわけて歩いて行った。

ステーションのベンチにつくと、少年は懐からひどく錆びた小型のナイフと二十五セント硬貨を取り出した。代わりに封筒はドミニクに返してくれる。

「よく見ていてくださいね」

そう言うと、彼は迷いなく錆びたナイフの刃を立てる。コツ、と硬貨の縁に触れた。少年の右目の中にうっすらと時計の文字盤の三時のような模様が浮かび上がる。    次の瞬間、二十五セント硬貨は音もなく割れ、銀色の断面の奥に、薄い銅の線が覗いた。

ドミニクは驚きのあまり声も出せなかった。自分だって、こんなに錆びた刃物で切れるのは良くて木材までだろう。

「ね、言ったでしょう」

目の前で起こった光景が信じられずに目を瞬かせるドミニクに少年は嬉しそうに声をあげる。その顔は年相応、というにはまだいくらか大人びていたが、それでも今までで一番子供らしかった。

それにしても、だ。  真っ二つになった硬貨を眺めながらドミニクは眉をひそめる。

「お前が俺と同じで右目の三時なのはわかったけど」

「カンユエです」

名前を呼べということらしい。相も変わらずにっこりと少年、改めカンユエは笑いかけてくる。

「……カンユエが俺と同じで右目の三時なのはわかったけど、良かったのか?わざわざ硬貨を切ることなかったんだぞ?」

カンユエは不思議そうにまた首を傾げてまず自分の手の中の硬貨を眺め、それから視線をドミニクの手の中のVATの封筒に移した。

「お金に困っているんですか?」

子供らしい正直な物言いに、怒る気にもなれずドミニクは俯いた。どちらかというと羞恥の方が強かった。カンユエのピカピカの黒いローファーが目に眩しい。

「VAT、Valuable Ability T・r・e・a・t・m・e・n・t・にはもう行かれたんですか?」

「は?」

今度こそ怒ったような勢いのある声が出たのは、カンユエの態度にうんざりしたからではない。言っている意味が全く分からなかったからだ。

「VATはValuable Ability T・a・x・だろ?」

「もう一つあるんです。ケンモアにある事務所の噂、聞いたことないですか?」

首を振って見せれば、カンユエはあらあらと言うように眉毛を下げた。

「困ったらそこに行けばVATをなくしてくれるって家族が言っていました。少し前に僕の家もお世話になったんです」

自分を今まさに苦しめているVATに、見当もつかないもう一つのVAT。二つを行ったり来たりするカンユエの言葉に寝不足のドミニクの頭はなんだかくらくらし始める。

「僕、いつもはここへ来れないんです。今日がチャンスですよ?」

追い打ちをかけるようにそう言うと、ふふんとカンユエは微笑んだ。

その独特の気迫に、ドミニクは気づけば首を縦に振っていた

***

「……はい」

連れてこられたケンモアのブラウンストーンの扉を叩くと、出てきたのは見るからに愛想の悪そうな同い年くらいの青年だった。野良猫のように気だるげでいて鋭い目つきに、肺の奥から吐き出したような重たく面倒くさそうな声。背丈は同じか自分より低いくらいだが、ドミニクは思わず縮こまってしまう。

「えっと」

早々に気圧されてしまったドミニクが思わず縋るように見下ろすと、待ってましたと言わんばかりにカンユエは小さく胸を張った。

「以前父がお世話になりました。カンユエ・ジャンです」

カンユエの挨拶に青年のまとう空気がいくらか和らいだような気がした。

「ジャンさんの息子さん?」

「はい。知り合いのお兄さんが困っているので今日は彼を助けて欲しくて」

言い終わらないうちに青年は小さく開いていたドアの隙間を広げると、ドミニクとカンユエに手招きをした。中に入ると一番にローテーブルを囲んだマネーグリーンの立派なソファが現れる。

「かけて」

そう言ってソファを指さすと、青年は玄関脇の簡易的なキッチンに立ってコーヒーを二杯淹れて戻ってきた。

「ドミニク・カーターです。異能税の減免申請を手伝ってもらえるって聞いて、えっと」

今度こそ自分でなんとかしないととドミニクが話し始めるが、青年は用件は大体わかっているとでも言いたげに片手を差し出した。握手を求められているのだろうか。ドミニクが右手を差し出そうとすると制止するように青年が口を開いた。

「ゼノ。書類見せて」

慌てて封筒を差し出す。一拍遅れてゼノが彼の名前なのだと気が付いた。  バクバクと心臓が鳴りやまないドミニクのことなどお構いなしにバサバサと書類をめくっていくと青年改めゼノは顔を上げた。

「……ちょっと待ってて」

返事をする間もなくすたすたとゼノは事務所の奥へ消えていく。  ようやくほっと息をついてカンユエの方を見ると、おいしそうにミルクも砂糖も入れずコーヒーをすすっていた。いくら父の知り合いだとしても、ゼノの態度は子供から見たらずいぶん冷淡ではないだろうか。全く肝の座った子供だ。リラックスした様子のカンユエにドミニクは小さくため息をついた。

まもなくゼノはもう一人青年を連れて降りてきた。見たところゼノやドミニクよりも少し年上で、服装こそラフなものの爽やかな笑みを浮かべ、できる社会人風の雰囲気を醸し出している。

「お待たせいたしました!お客様の担当をさせていただきます、所長のデフロリアンと申しま」

「お前ら苗字同じだからめんどくね?」

デフロリアンと名乗った青年の挨拶を遮るようにそう言って事務所の奥からもう一人、目が覚めるような赤髪の青年が顔を覗かせた。根元の色が少し黒いのを見るに染めているようで、羽織ったライダースも含め、挑発的な彼の態度によく似合っていた。

「改めましてレオナルド・デフロリアンと申します。彼は社員の」

「エース。書類見せて」

ゼノと全く同じスタイルで名を名乗るとエースはずいっと手を差し出した。あっけにとられつつもドミニクは今度は間違えずにちゃんと書類と学生証を手渡した。すみません、とドミニクに頭を下げると、レオナルドは鼻歌交じりに書類をめくるエースをぎろりと睨みつける。

「おうおうおう……なかなかいい条件してんじゃないの」

「エース、お客様の前だぞ……でもそうだな」

書類をエースから受け取るとレオナルドはふむと顎に手をやった。

「在学証明、所得に扶養状況。これだけでも十分申請が出せますよ」

「でもそんなこと通知には一言も」

ついていけずにドミニクが尋ねると、レオナルドは顔を上げてため息をついた。

「明記すれば申請が相次ぐでしょうからね。向こうも取れる分は取りたいんですよ」

そんな馬鹿な。驚きでフリーズしているドミニクに追い打ちをかけるようにエースが口を開いた。

「要するにあんたは上の連中のカモにされてるってこと。わかる?」

「エース!」

レオナルドの声が飛ぶが慣れたようにエースは肩をすくめた。    と、そこへ先ほどから気配を消していたゼノがひょいと書類に顔を覗かせる。

「……右目の三時」

彼が目を止めたらしいのは、異能力者の識別の印となる左右どちらかの目に浮かぶ時計の模様の欄。ゼノの言う通り、ドミニクの印はカンユエと同じ、右目の三時だ。

「あ、ああ。俺と一緒だな」

「所長さんも何か切れるんですか?」

ゼノの言葉に平静を取り戻したレオナルドに、すかさずカンユエが質問する。

「いや?俺は体がシールドみたいに固くなって色々防げるんだ」

答えながらレオナルドは、突然喋り出したカンユエを驚いたようだった。ぱちぱちと目を瞬かせるレオナルドにカンユエは親し気に笑いかける。

「申し遅れました、カンユエ・ジャンです。父がお世話になりました」

レオナルドは一瞬首を捻っていたが、すぐ合点がいったように「ああ!」と明るい声を上げた。

「ジャンさんの息子さんかあ。写真で見たより大きくなったなあ」

わしゃわしゃとレオナルドが頭を撫でてやればまんざらでもないようにカンユエは頬を緩める。

「ガキが税務相談見て楽しいか?」

「まあ楽しいことはないですけど」

不思議そうにエースが尋ねるとけろっとした様子でカンユエは答えた。その言葉にレオナルドはきょろきょろとあたりを見渡す。

「向こうにトランプとかチェスとかあったろ。エース出してやって」

口を尖らせながらエースがはけていくと、話を戻すようにまたゼノがドミニクの方を向いた。

「切れるって言ってたけど、どういう異能なの?」

意図の読めない冷ややかな視線から逃れるように、ドミニクは慌てて言葉を探す。

「えっとハサミとかナイフとか持つと何でも切れちゃうんです……とはいっても個人差はあるんですけど」

先ほどの駅でのカンユエの能力を思い出しながら付け加えるが、そこにはゼノは気に留めず、納得がいったように机に放られた封筒の方に目をやった。

「ああ、だから」

遅れて事情を理解したらしいレオナルドもなるほどとドミニクに頷いて見せた。

「これまで能力が原因で仕事を辞めないといけなくなったり、あるいは職に就くのが困難だったりしたことは?」

能力が原因で困ったこと。そんなの、たくさんあるけれど。ドミニクは遠慮がちに口を開いた。

「……高校生の頃からアルバイトが長続きしなくて。今雇ってもらってるところは清掃業なんであまり困ることはないんですけど」

「でもそういう仕事だって刃物はちょいちょい使うだろ?」

カードゲームの類を棚から漁りながら呆れたようにエースが割って入る。戸惑うドミニクにレオナルドは今回の申請での金額の変動を簡単に書き出して見せた。

「こちらが先ほどお話しした申請で免除になる金額です。これに加え、今のお話から異能による就業困難の申請も出せるかもしれません。詳しく伺ってもいいですか?」

「でも、さっきも言ったけど高校生の頃の話だから扶養には入っていたし……」

とんとん拍子に進んでいく話にドミニクは次第に恐怖を覚えていた。今までこんなに苦労してきたものが役所に出す紙切れ一枚で変わるのだろうか。それに、レオナルドの話が本当ならほとんどVATを払う必要はなくなってしまう。

「俺、捕まったりしないですよね……?これじゃあほとんど税金払わなくてよくなるじゃないですか」

自分でも情けなくなるほどか細い声でドミニクが問うと、不思議そうにゼノがこちらを見やった。

「嬉しくないの?」

シンプルだがその答えが今のドミニクには一番難しい。しどろもどろになりながらもドミニクは言葉を続ける。

「それは……でも……俺以外にも苦しい人はいるかもしれないし、そもそもまず自分で調べて申請だって出すべきだったんじゃないかって」

あまりにもあっけない糸口がドミニクには信じがたかった。俯いてしまったドミニクに少し驚いたように目を丸くしたゼノは今までより少し遠慮がちに言葉をかける。

「別に俺も自分の申請できないけど……」

「いや、お前はできててほしいんだよな」

困ったようにゼノの方を見てぼやきながらも、レオナルドは、ドミニクをのぞき込むようにして少し体をかがめる。

「カーターさんはもともと払わなくていい分まで払っているんです。この申請はそれを取り戻すためのものだ。それに何かあったら我々が間に立ちますから。そのためのVATです」

「そうそう、制度の抜け穴突いたって、抜かれるようなもん作ってる方の責任だろ」

ソファの向こうの床でカンユエとチェスをしていたエースがそう言うと、珍しくレオナルドは同調するように彼の言葉に大きく頷いた。

「使われて初めてちゃんと考えられるものもあるんです。カーターさんが悪いわけじゃない……それに解釈の余地があること自体、誰かがこういう使われ方をする未来を想像したのかもしれない」

予想外の事実に続いて、予想外の言葉の嵐にドミニクは思わず顔を上げられないまま固まってしまった。

俺が悪いわけじゃない。

使われて初めて考えられる制度もある。

何かあったらこの人たちが力になってくれる。

レオナルドの言葉を反芻しながら、ドミニクはまた頭がくらくらし始めた。

***

念には念をということでレオナルドとゼノは前例を調べにまた事務所の奥へ引っ込んでしまった。聞くところによると別の階に調査員がいて彼に話をつけに行っているらしい。

「ね、すごいでしょう」

オレンジジュースをテーブルに置いて、自慢気にカンユエはドミニクの方を見た。彼の対戦相手のエースも先ほど呼び出されて席を外してしまったので、二人は一度戻ってきたレオナルドの用意してくれた飲み物を飲んで一息ついたところだった。

「すごいはすごいけどなんというか……」

すごいなんて言葉じゃ足りないくらいの体験をした気がする。上手い言葉が見つからず、ドミニクはため息をつくと、改めてまじまじとカンユエを見つめた。

「カンユエはすごいな。まだ子供なのにこんな場所を知ってて」

親がお世話になったからって、彼くらいの年の子なら興味を示さない方が普通だろう。ましてや今日であったばかりの男を案内するなんて、同じ年の頃の自分ができるとは到底思えない。

と、そのときベルが鳴り、遅れて背後のドアが開く音がした。

「あれ、お客さん?」

振り返れば、赤毛を後ろで一つに束ねた青年がきょとんとした顔でこちらを見ていた。手の中には大事そうにピンクとオレンジの紙袋が抱えられている。このあたりで有名なドーナツ店のものだ。

「あ、アレルギーとかある?」

視線に気が付いた青年は人のいい笑みを浮かべると紙袋を掲げて見せた。途端に恥ずかしくなってしまってドミニクは俯いた。

「食べていいんですか?」

隣でカンユエが無邪気な声を上げる。

「いいよいいよ好きなだけ」

ローテーブルに袋を置くと、青年はドミニクとカンユエに一つずつドーナツを握らせる。

するとそこへエースが戻ってきた。青年の顔を見ると嬉しそうに唇を吊り上げる。

「アル、帰ってたん?」

「うん。ついさっき」

ほー、と相槌を打ちながら自分も一つドーナツを手に取ると、エースはこちらを指さして見せた。

「VATの減免申請で来たドミニク。こいつはカンユエ。ジャンさんのところの息子だって」

「え!すっごい大きくなってる!」

「あの写真結構昔のなんですよ。父、気に入ってて」

「なるほどお」

心底嬉しそうにカンユエを眺めながら、アルと呼ばれた青年は自分も一つドーナツを手に取った。それが合図になってドミニクもやっともらったドーナツに手を付ける。ふと目をやればカンユエや先ほどドーナツを取ったばかりのエースはもうナプキンで手を拭いているところだった。

「エースさん、チェスの続きしましょうよ」

「やだよ、お前えぐい手打ってくるんだもん」

「僕が勝ったってことでいいですか?」

「……大人の焚き付け方よくわかってんじゃねえか」

ドミニクがナプキンを手に取ったころにはもう二人はチェス盤の前に戻って熱戦を繰り広げていた。青年と二人きりになったドミニクは所在なくテーブルの上を眺める。袋の中にはまだまだいくつもドーナツが残っている。昼を抜いたせいで腹が空いていたけれど、自分からもう一つ欲しいというのは卑しくて言い出せないでいた。

そんなドミニクの胸の内を知ってか知らずか、もう三つドーナツをキッチンから持ってきた皿に取り分けると、青年は残りをドミニクに差し出した。

「おいしかったら持って帰ってもいいよ」

「えでも」

「そこの通りの店だから俺らはいつでも食べられるし」

紙袋を握らせると青年はくしゃりと笑って見せた。首を傾げた拍子に尻尾のように一つに束ねた赤毛が揺れる。

「ありがとうございます」

お礼を言いながらドミニクは胸の中にじんわりと熱が広がっていくのを感じた。

***

しばらくしてレオナルドとゼノはどっさり資料を抱えて事務所に戻ってきた。  それからもう何度かやり取りをして、目途がつくと事務所の外まで全員が見送りに出てくれた。

「書類の作成が終わったらまた改めてご連絡させていただきますね」

遅ればせながら、と赤地に黒のインクの特徴的な名刺を渡すとレオナルドはドミニクが名刺をしまうのを待って、右手を差し出した。

「ありがとうございました」

レオナルドの手をしっかりと握って感謝を伝える。

「困ったことがあったらいつでもまた来てください。そのためのVATですから」

彼は朗らかに笑うと空いた左手でとんと自分の胸元を叩いて見せた。

そうしてお互い手を解いてもう一度お礼を言い、踵を返そうとしたそのときカンユエがドミニクの裾を引いた。

「ちょっと待っててもらっていいですか?」

言い終わらないうちに小走りで、エースの元まで駆けていくと、しゃがませてこそこそと何かを耳打ちする。呆気にとられたようなエースに何やらメモを握らせると満足げにこちらに戻ってきた。

微笑まし気なVATの面々の視線を背にドミニクとカンユエはすっかり暗くなった街へと足を踏み出した。

近くの駅までカンユエは兄が迎えに来ているという。そこまで送る約束でドミニクは一緒に街灯の下を歩いた。

「最後にエースさんと何話してたの?」

「また一緒にゲームをしたいから僕のお部屋の電話番号を教えてあげました」

存外子供らしいカンユエの言葉にドミニクは思わず笑みを零す。それを見てカンユエは目を丸くすると満足げに自分も笑って見せた。

「あ、お月様綺麗ですね」

ふいに空を指さしてカンユエは歓声を上げた。つられて頭上に目をやれば大きな満月がまるで太陽のように明るく光っていた。

「僕の国の文字は響きとは別に一文字ごとに意味を持つんです」

立ち止まって月を眺めながらカンユエはそう言った。

「Iが一人称みたいにってこと?」

ちょっと違うんですけどね、とドミニクの問いかけに苦笑するとカンユエはまた歩き出した。

「僕の名前、ブルームーンって意味なんですよ」

「いい名前だな」

「はい」

どんな文字を書くのかドミニクにはわからなかったけれど、聡明で凛としたこの少年にぴったりな名前だと思った。

そうこうしているうちに駅にたどり着いた。  あの満月の浮かぶちょうど向かいの路肩には、ドミニクでも名前のわかる有名な黒塗りの車が一台止まっている。カンユエと同じく身なりの整った清潔感のあるアジア系らしき青年が運転席から顔を覗かせた。カンユエがそれに大きく手を振り返す。

「ありがとう。案内してくれて」

今にも駆けていきそうなカンユエを呼び止めるようにそう言うとカンユエは振り向いてにっこりと笑った。

「こうして会えたのも異能のご縁ですからね」

異能のご縁か。今までなら舌打ちの一つでもしたくなってしまっただろう言葉に自然と口元が緩むのを感じた。

「だとしたら悪いとも言い切れないかもな」

ドミニクの言葉にカンユエはいつも通り満足そうに微笑んだ。

「また必ずどこかで会いましょうね」

「ああ、気を付けてな」

満月と星空の方へ向かって去って行く背中に手を振りながら、ドミニクは今日は久しぶりにぐっすりと眠れそうな気がした。